インクルーシブ教育 オンラインセミナーのアーカイブを聞くなど
実体験からくる当事者の言葉の数々には、実感と重みとがある。
***印象的だった部分を抜粋***
「地域で共に生きるためには、かけがえのない人たちとの出会い、これを奪われずに共に学べるインクルーシブ教育というものを実現する必要があると実感しています。やはり大切な子ども同士の育ち合う時間を分離教育は奪ってしまう。
昨年の9月には、国連の障害者権利委員会から日本に対して、分離教育を中止してインクルーシブ教育を進めるようにという勧告が出されています。しかし日本の文科省は分離教育を廃止しないと宣言しています。文科省は障害児や保護者の意思を尊重しますと言っていますけれども、普通学校や学級を希望する親や子どもに対して、設備とか陣配置などの理由で入学を拒否する事例が後を絶ちません。国は、国連からの勧告を守る気はないように私は思います。
特に教育基本法改正以降教育振興基本計画というのを自治体が立てるようになりまして、その中では確かな学力の要請、みたいな学力向上政策がほとんどの自治体に入ってしまって、達成できてるかっていうのを指導主事の方がチェックして回っている。うまくいかない場合は授業実施を増やせとかいろんな指示が飛ぶというような話は聞いているんです。そのあたりの問題が非常に深刻なのではないか。
知的障害者の人が自立について、もちろん最初は例えば乱暴なことをしたりとかする場合もありましたけれども、だんだん人間関係ができてくると自分の言ってることが通じるんだなっていうのを本人が実感することが大事。理由があって何か訴えたいけど、そういう形になっちゃうみたいなっていう人が多いですから、そこは関係性を保っていけば、地域の中で一緒に暮らすとか同じ教室で学ぶってことは可能です。攻撃する背景に彼もしくは彼女がどんなメッセージを発しているのかっていうところを聞くことなしに外形的に判断して、この人は攻撃的だから排除してもいいんだ、とこういう話にはならないよねという。
やはり僕らが差別に対する感度が非常に低い。
欧米の文献見てますとインクルーシブ教育ってのは、社会の差別があって、それをどう克服するのかっていうことが課題となって、学校でインクルーシジョンに取り組むんだっていう一つの太い筋があるような気がします。
インクルーシブ教育わかったと理想だよね、だけど現実には難しいってよく言われちゃうんですけれども、そういう問題じゃないってことですよね。つまり目の前に差別があるんだったら、その目の前のものをどうするかというそういう問題なんだってことです。
社会が障害者の責任を全部親に押し付けている家族制度が障害者を家に閉じ込めていく。社会から障害者だけじゃなくて、親も含めて家族ともども排除していく構造っていうのがあるので、どうしても親は自分の子供が安全に安心して命が保っていける場所を探すんです。それは親心ですから当然かなっていうふうに思うんですけど、でも大人になった子供はやっぱり施設しかないという現実の中で育ちますし、社会に出たいって思っても中学あるいは高校生まで分離されたところで育ちますと社会に出るのが怖くなる。管理者とか教員とか看護師、医者っていうのが健常者の象徴みたいになる。
同い年の若い健常者の人たちとの友達ができた時ってすごい嬉しかったですね。これが楽しいっていう感覚なんだなとかっていうのを社会に出て初めて知って、社会に出て初めて私が分けられてきたんだなっていうのを実感しました。
差別とかいざこざとかすれ違いとかって、一緒にいるからこそ生まれてきて、そして解決できると思うんですよね。でも差別意識を持ったまま一緒にいないから解決できないわけですよね。地域で一緒にいれば、たとえ差別があったとしてもそこでお互いの関係性の中で改善したり解決していける環境っていうのがある。でもその環境がないから差別は差別じゃないような感じで、健常者社会は進んでいくわけです。される側される側で一箇所に集められているから差別の接点がなく、改善する接点がない。
私は地域に出てきた時いろんな差別を受けますしそれこそバリアもたくさんあった。それもぶつかるからこそそこで理解されることもたくさんあるんです。
やっぱり社会のスピード、能力主義だったりとか、効率とか生産性とか、そういうものが求められる社会。そういう中では障害者それぞれに対する合理的配慮っていうのが整ってなかったり、あるいは構造的なものが設備が整ってないとかいろんな理由がある。障害者がいない方がスムーズに社会が回っていくっていうように思われてるんじゃないかと私は思うんですけれども、そういう意味で差別されてるんじゃないかなと思います。
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みんなで一緒に生きていく社会は絶対に必要なのだ。だって社会だもの。今は、あまりにもひどい状態なのだと思う。
小学生の低学年時、特別支援の教室が同じ学校内にあって、特定の科目だけ来て勉強する子がいたなと思い出す。その子のちょっと寂しげに戻っていく様子とか、どうしてなのかなと淡く不思議に思ったこととか。その教室の前を通る時に見るもなしに見ると色々な障がいを持つ子どもたちがいたこととか。
後にボランティア活動でもっと近く接することがあり、彼らの魅力に触れた。
高齢者になればいずれは誰もが障がい者だ、とどこかで聞いた。確かにそうだ。
ボランティアをしていたなどいうと「優しい」とか言われたりすることがあるけれど、そういった特別な性格的なこととしてだけ受け止められるのではない、もっと別の見方も広まったらいい。その先に「なにも特別なことではないよね、」という社会ができたらいい。
分離教育は互いの学ぶ機会をとりあげられている状態だ。多様性の豊かさからの分離。インターネットを通じて世界中にアクセスできるようになった現代社会だけれど、直に触れる世界はどんどん狭められて逆に貧しくなってしまった部分は否めない。自分自身を振り返ってみても感じる。どこか小さな世界に縮こまるようにして身を寄せているような。人間は安全を求める生き物だから自然なことでもあるのだけれど、安定を崩して次に進むということが生きることでもある。ここに「立っている」ということから1歩歩みを進めることは、「バランスを崩して」足を出すことから起こるのだ。
たったひとりの人との出会いが生きる世界を幾重にも広げるということがある。
オンラインは気軽に申し込みができて、スマホさえあれば場所や状況を選ばず視聴できるのがありがたい。それだけに見逃してしまうことも多々。この辺りのスケジュール管理ができてなくて、これからの課題。
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